名作に宿る思想

『出口なし』に描かれるサルトルの「他者のまなざし」:実存的自由と地獄の構造

Tags: サルトル, 実存主義, 他者のまなざし, 出口なし, 戯曲, 存在と無

ジャン=ポール・サルトルの戯曲『出口なし』(原題: Huis Clos)は、「他者とは地獄である(L'enfer, c'est les autres)」という印象的な台詞と共に、サルトル哲学、特にその核心をなす実存主義と「他者のまなざし」の概念を鮮烈に提示する作品です。本稿では、『出口なし』を深く読み解きながら、サルトルがこの作品を通して描こうとした「他者のまなざし」の構造、それが登場人物たちの実存的自由と責任、そして彼らが囚われる「地獄」の様相にどのように関わっているのかを考察します。

『出口なし』の概要とサルトルの実存主義

『出口なし』は、第一次世界大戦中に銃殺刑に処されたジャーナリストのガルサン、レズビアンで冷酷な性格を持つイネス、そして金持ちの男と結婚していた浮気性のエステルの三人が、死後の世界で奇妙な密室に閉じ込められるところから物語が始まります。この部屋には窓がなく、鏡もなく、睡眠も許されず、常に電気は点灯しています。三人は互いに見つめ合い、語り合うことしかできません。彼らはそれぞれが過去に犯した罪を背負い、この閉ざされた空間で、互いの存在を通して自己の罪と対峙することを強いられます。

サルトルの実存主義は、「実存は本質に先立つ」というテーゼに集約されます。これは、人間はまずこの世に存在し、その後で自らの選択と行動によって自らの本質(あり方)を形成していく、という考え方です。人間は絶対的な自由を負い、その自由故に自己の選択と行動に全責任を負わなければなりません。しかし、この自由は同時に不安と孤独を伴います。人は自らの行動によって常に自己を規定し続けなければならず、その選択から逃れることはできません。

「他者のまなざし」が囚人たちに与える影響

『出口なし』において、この実存主義の核心にあるのが「他者のまなざし」の概念です。サルトルは主著『存在と無』において、「他者」の存在が自己の自由をどのように制限し、変容させるかを詳細に論じています。自己は常に主体として世界を認識し、意味を与える存在ですが、他者が出現した瞬間、自己は他者の意識の対象となり、客体として固定されてしまいます。他者のまなざしは、自己の絶対的な自由を奪い、自己を「〜である」と規定する力を持っているのです。

密室に閉じ込められたガルサン、イネス、エステルは、まさにこの「他者のまなざし」の暴力にさらされます。彼らは互いの行動や過去の言動を常に観察し、裁き合います。

彼らは互いに鏡となり、赦しを求め、あるいは非難し合います。この空間では、自己の行為が常に他者の評価にさらされ、自己の存在が他者の言葉によって絶えず定義し直されるのです。彼らは死後の世界に閉じ込められていますが、本当に彼らを苦しめるのは肉体的な拷問ではなく、自己の自由が他者のまなざしによって奪われ、自己欺瞞が許されない精神的な地獄なのです。

「地獄とは他者である」の真意と実存的自由の重荷

劇中で発せられる「地獄とは他者である」という言葉は、しばしば誤解されがちです。これは、単に「他者は厄介な存在だ」という意味ではありません。サルトルが意図したのは、他者の存在が自己の自由にとって避けがたい挑戦となる、という深い洞察です。

人間は、自己の行動によって常に自己を創り出す自由を負っています。しかし、他者のまなざしは、その自己をあるがままに客体化し、特定の「本質」として固定化しようとします。例えば、ある人が「勇敢である」と自ら思っていても、他者から「臆病者である」と見られたり、過去の行為をそのように解釈されたりすることで、その「勇敢である」という自己認識は揺らぎます。

『出口なし』の登場人物たちは、他者のまなざしから逃れることができません。彼らは互いを必要とし、同時に互いを苦しめます。自己を肯定しようとすればするほど、他者の否定的なまなざしによってその試みは妨げられます。彼らが本当に苦しんでいるのは、自己の存在を決定する自由が、他者によって常に審査され、修正され、固定されてしまうという状況なのです。物理的な出口がないだけでなく、自己の存在論的な出口、つまり他者のまなざしから逃れて真に自由に自己を定義する道がないことが、彼らにとっての究極の「地獄」なのです。この地獄は、彼らが自らの責任を負い、実存的自由の重荷と向き合わなければならない場所でもあります。

カミュの不条理との比較

サルトルの「他者のまなざし」とそれに伴う実存的苦悩は、アルベール・カミュの提唱した「不条理」の概念と比較すると、その特性がより明確になります。カミュの不条理は、人間が求める意味と、世界が無意味であるという現実との間の本質的な乖離に根差しています。彼の代表作『異邦人』の主人公メルソーは、社会的な規範や他者の期待に無関心であり、世界の不条理を純粋に体験する存在として描かれます。

一方、サルトルの「他者のまなざし」は、不条理が主に自己と世界の関係性から生じるのに対し、自己と他者との関係性から生じる実存的危機を強調します。サルトルにおいて、地獄は内面的な意味の喪失だけでなく、他者の存在によって自己の自由が客体化され、本質として固定されることにあります。カミュが「不条理」を認識した上での「反抗」や「連帯」を模索したのに対し、サルトルは他者との関係性の中で自己が常に選択し、責任を負う「実存的自由」の重荷を深く掘り下げたと言えるでしょう。

結論:現代社会への示唆

『出口なし』は、人間の根源的な自由と、その自由が他者の存在によってどのように制限され、あるいは試されるのかを哲学的に深く描いた作品です。この戯曲は、人間が自己を定義しようとする際に直面する普遍的な葛藤を浮き彫りにします。現代社会、特にSNSの普及によって、私たちは常に他者のまなざしに晒され、他者の評価や承認によって自己の価値を測りがちです。この状況は、『出口なし』で描かれた密室の状況と通じる部分があるかもしれません。

サルトルは、他者のまなざしが地獄であると同時に、それは自己が自らの自由と責任を自覚し、自己欺瞞から脱却するための契機ともなり得ると考えました。登場人物たちは最終的に部屋から出るチャンスを与えられながらも、再び地獄を選びます。それは、彼らが他者のまなざしなしには自己を存在させることができないという、実存的な問いを突きつけるものです。私たちは『出口なし』を通して、自己の自由と他者との関係性を改めて深く考察する機会を得ることができます。